われわれに刻まれた「失禁」への恐怖
「もしかして、自分は今クソを漏らしているのではないか?」
そんなえも言われぬ不安を抱いたことはないだろうか。
ちなみに私はしょっちゅうある。
つい先日、近所のプールに泳ぎに行った時のこと。
泳ぎ始めたばかりの時には10名弱ほど泳いでいたのに、1時間も経たないうちに客は3人に減ってしまった。
そこで私はこう思う。
「もしかして、自分がクソを漏らしたせいか?」
トイレで小を済ませた後、何やら尻のあたりに違和感がある。
「もしかして、尿と一緒にクソも出てしまったか?」
電車内に、どういう訳か異臭が漂っている。
「もしかして、自分のクソの匂いか?」
結論から言うと、今まで述べた「失禁への懐疑」はすべて杞憂であった。
実際問題、大人になってから失禁をしてしまったことは一度もない。
幼い頃に漏らした記憶はあっても、トラウマといえるほど深く覚えているわけではない。
ではなぜ、私はこんなにも脱糞していないか不安になりながら生活しているのだろうか。
それはおそらく、「失禁」という行為に対しての恐怖を魂に刻み付けられたからだ。
生まれて初めて抱く嫌悪
人間が生まれて初めに感じる不快感といえば、「空腹」「不眠」「排泄後のムレ」である。
そのうち「空腹」「不眠」は、放置しておけば命を脅かされかねない。
しかし「排泄後のムレ」については、(皮膚がかぶれる危険性はあれど)命を落とすほどの危険性はないはず。
だからこそ、「命の危険はないが嫌悪するもの」として初めて認識するのが、「失禁とそれに伴う不快感」なのだ。
その嫌悪が、「失禁への恐怖心」として人々の心に死ぬまで残り続けるのではなかろうか。
文明の進歩・排泄の枷
失禁には社会的恥辱という側面も大きい。
大の大人が人前でクソを漏らすことにより、「迷惑者」「恥ずかしい人間」「負け組」と笑い者になるのが恐ろしいのだ。
社会の進歩と科学技術の発展により、人々はいつでもしたい時に排泄行為を行うことができるようになった。
しかしそれでも、「漏らしたらどうしよう」「トイレまで間に合わないかも」という焦燥は人々を悩ませ続けている。
文明が進歩しすぎたせいで、その場で脱糞するという選択肢を失ってしまったのは実に滑稽である。
「シュレディンガーのクソ」
クソを漏らしているのか、いないのか。それはトイレで下着の中を確認するまでわからない。
漏らしている感覚がなかったとしても、常に抱える「失禁への恐怖」がノイズとなり安堵できないからだ。
「もしかして、自分は今クソを漏らしているのではないか?」
そんな不安感を臀部に抱えつつも、私はこれからも何食わぬ顔で生きていく。
無駄な足掻きとして、腸内環境と括約筋を精一杯大事にしながら。